2013年12月29日日曜日

心臓血管外科から再びリハビリ科へ

病院に運ばれ、また様々な検査をした母。
その後の診察で、やはり血栓が飛んでるので、ステントを入れる必要があるとの事。

鎖骨のくぼみの所からステントを入れるらしい。
医師は簡単な手術だから心配ないと言うが、母は手術と聞いただけで、
怯えきってしまっていたので、手術じゃなくて、処置するんだよ。
怪我した時の簡単な処置と同じだから、心配しなくて大丈夫。
と言い聞かせた。

都合よく信じてくれたようで、特に問題もなく手術まで運び、
入院も1週間程度で済んだ。気になっていた足の痛みも弱くなってくれたので、
こちらも、とりあえず安心できた。

退院後、またリハビリ病院へ戻ることになっていたので、再びリハビリ病院へ。
やっと、機能回復のリハビリを開始することが出来る。と安堵した。

まず、立ち上がれないので、麻痺している方を足を支える装具を作らされる。
役所に申請すれば、後で補助が出るものの、オーダーメイドになり、
20万程度の出費が必須。

装具が出来てからは、ひたすらリハビリの日々。
立ったり座ったり。そう、筋トレでいうスクワットである。

病状と回復具合に応じてメニューが変わるものの、
母は、なかなか新しい事に取り組めない。他の方より回復が遅かったので、
時には、リハビリ担当者がセンター長に怒られてる事もあった。

普段の移動等は、片足で漕ぎで車椅子。
他の方の車椅子にぶつかろうが、部屋間違えようが、全て本人自らが移動しなくてはならず、
家族が知らずに車椅子を引こうものなら、センター長の怒号が飛んでました。

と、いう事は、私とも衝突した事は何度かはありました。

けど、リハビリに関しては、彼はプロ中のプロです。
全て信頼してましたので、ある種似た者同士の、コミュニケーションだと思ってました。

当時の母はまだ50代。体力的にもまだ十分元気な世代です。その年齢で、不自由を強いる生活は、して欲しくなかった。
出来る事があれば、何でもお願いしたかった。そう思ってました。
そんな事情を察してくれたのだと今では思ってます。




相性があるとは思うので、お勧め出来るかと言われれば、ちょっと躊躇してしまいますが、
介護施設で行うリハビリなんかに比べたら、厳しいですが神業レベルです。
私個人的には、彼の指導が行き届いた施設で、母のリハビリが出来て、非常に満足しています。
 
ただし、母はもう二度と行きたくないようですけどw






2013年クリスマス用に。デイサービスにて作成。


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2013年12月27日金曜日

リハビリ開始のはずが...

救急搬送された病院から、リハビリ病院への転院した母。

雰囲気は通常の病院より、はるかに明るく、活気に溢れてました。

ここで頑張ってる人は、近い将来の自宅での生活があるんです。
きっと、早く家に帰りたい。前みたいに歩きたい。人並みの生活が早くしたい。
そんな思いに溢れてる人達ばかりなんです。



  ここで、いい刺激を受けて、母も早く回復してくれるといいな。



と思ったのもつかの間、再び母が足に違和感を覚えはじめ、
事ある毎に「痛い、痛い」を連発するようになってしまいました。


病院にとっては、「痛い痛い」と言う言葉は、聞き慣れてるかもしれません。
まして、リハビリ病棟ですから、不快感やリハビリを拒否して「痛い、痛い」と
言う人が少なからず居て、その方々と同じと思われるかも知れません。

しかし、元々母は我慢強いタイプでしたし、
そんな母を知る家族が、様子を見た上で申告してるのです。
ここで、すばやく検査等の対処すべきだと思うのですが、全く取り合ってもらえず、
怒りを覚えました。

そうしてるうちに、数日が経過、回復するどころか、
痛みはドンドン増してきてしまい、とうとう叫ぶように痛がり始めました。


「ほら、見たことか」


と、正直、心の中で思いました。

ここで、やっと看護師が事の重大さに気付いたようで、
医師に相談し、院内で検査をする運びとなりました。

その結果、




「深部静脈塞栓症」




の可能性がある。との事。


この病気、文字通り静脈に血栓が出来る病気だそうで、
日本人には珍しいようです。しかも母の場合肺の方にまで小さい血栓が飛んでしまっており、
ステントを入れないと危険と判断されました。

急遽、別の系列病院に転院する事になってしまいました。

再び、母はストレッチャーで、病棟から運ばれ、私も再び入院用の荷物を手に一杯持ち、
病院所有の救急車に同乗する事になってしまいました。


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2013年12月25日水曜日

入院そして...

まるで深夜のように静まり返った搬送先の病院。

そこに、着の身着のままの格好で、ただ座って待つだけの自分。
目の前を誰が通ろうが、どんな顔されようが、知ったこっちゃない。
ただ、早く母の状況を知りたかった。。。


約1時間程度して、処置室に呼ばれた。


CTだのMRIだの画像を見せながら、医師が説明をしてくれた。



  「ここの右脳が白くなってるでしょ?これは脳梗塞です。」

  「しかも、これ、かなり大きいから、きっと車椅子になるだろうね。」




言葉を選ぶ訳でもなく、いきなり直球を投げてくる医師。



なのに、うろたえも、打ちひしがれもしなかった。
不思議と全くショックじゃなかったのだ。

倒れた瞬間の麻痺の状態を見て、覚悟を決めたからなのか、、
それとも、生きてて、会話出来れば、それだけで十分。とでも思ったのか。
いまだに良く分からないが、恐らくは両方なのかもしれない。
前と同じような身体じゃなくても、意思疎通できて、そして存在していれば、
まだまだ、たくさん時間を共有出来る。この状況下では、これだけで十分だった。




これから病棟へ運びますから、もう帰って頂いて大丈夫ですよ。
と、言われ、家に帰った。


母は3日程HCU病棟に入院し、その後、一般病棟へ移された。


時々、足の違和感を訴えたが、状態は安定していて、
一般病棟に移ってからは、軽いリハビリ等もしたりしていた。


ただ、多少幻覚が見えたりするようで、誰かが居ると言ってみたり、
左半分の視野が欠けてるようで、見えない事が良くあった。
また、会話すると、時系列がメチャメチャだったり、生きてて当たり前と思うような事が、
言えなかったり、理解出来なかったりで、会話が結構大変だった。

身体の麻痺は、しっかり左半身に存在していたので、歩く事は出来ず全ての移動は車椅子。
しかも、顔にまでも麻痺の症状はあって、片目は閉じたままの状態。
それは、まるで極悪人な風貌だった。これだけは心苦しかった。

他の入院患者やその家族は、まるで見てはいけない物扱い。
でも、自分は堂々と、率先して車椅子を引き、母と何度も病院内を移動しりしていた。


そんなこんなで10日程して退院し、今度はリハビリ病院へ転院するよう言われ、
車で20分程離れた病院へ。

  

  「あそのこリハビリは凄く厳しいですよ。だけどその分回復する人もたくさん居ますから」



以前と同じようにとは行かなくても、少しでも回復してくれれば...
藁にもすがる気持ちで、母のリハビリ病院での入院が始まったのでした。



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2013年12月19日木曜日

ドタバタ搬送

倒れるまで、母は1人で小さな飲食店をやっていました。


大体いつも午後から動き出し、夜中に帰って来ると言った生活パターン。
倒れた日。いつもと同じように、出勤前の準備で入浴中でした。
そう、母は、よくある浴室で倒れたのです。


土曜日の夕食前の時間って事もあり、父も自分も家には居ました。
父は、早い時間から出来上がっており、爆音でテレビ鑑賞。
自分はそのテレビの音量が余りに煩いので、自室に居ました。


そんな時に、母が倒れたのです。


後から聞くと、風呂場の壁を何度も叩いたり、蹴ったり、
給湯スイッチに付いてる「呼び出し」ボタンを、麻痺が無い方の足で押したりもしたそうです。

でも、父はそんな状態。自分は自室に居たので、なかなか母の状態に気付かなかったんです。
そんな不運が重なってしまい、発見が少し遅くなってしまいました。


服を着せて、すぐ救急車を呼びました。
10分程度して、救急車は到着。すぐに救急隊が入ってきました。
これで、とりあえずは、救急隊員に任せて、病院に搬送してもらえば、ひと安心。
そう思ったのです。




  「脳梗塞の再発のようで自宅の浴室で倒れた」



と電話で既に伝えてはいましたが、再度到着した救急隊員が確認してきたので説明しました。

状況を同じように説明し終えたところ、病院へ持参する荷物、保険証、
そして、常用してる薬があれば用意するよう言われました。
薬はすぐ近くにあったので、これです。と救急隊員に渡し、
以前、母がこう言ったのを思い出し、母の部屋に荷物を取りに行きました。



  「もし、何かあったら、部屋に入院用の荷物を纏めたバックがあるから」



まさか、それを本当に使うことになるとは。。。


荷物も用意し、準備は整ったので、搬送かと思いきや、
肝心の担架を持った、他の救急隊は、どこにも居ません。


どうなってるんだ?


少し、イライラを募らせると、別の隊員が入ってきて、
先に家に居た救急隊員から、口頭で説明を受けてます。

そんなこんなで10分以上経過。早く搬送するようお願いするも、
何かまだあるようで、担架がまだ運ばれて来ない。。。
しかも、先ほど薬を渡したのに、 後から来た隊員に、
薬を用意するよう言われてしまい、


先ほど渡しました。


そういうと、


救急隊員は物の受け渡しは出来ない事になってるから、受け取ってない。と言う始末。



仮にそれがルールだとしても、なぜ他の隊員に確認しないのか?
正直腹が立ちました。そんな口論をしてるうちに、やっと担架が来ました。

まず、ご家族の方が救急車に乗ってください。と言われ、私が乗りました。

それから、母が担架で運ばれてきました。



早く病院に運んでくれ!



そう思ってるのに、車は一向に出る気配がありません。
どうやら、搬送先が無いみたいです。


  「一度目の脳梗塞で入院して、現在通院してる○○大学病院は?」


と、聞いたのですが、口ごもって返事がありません。
無理なら無理と説明位はして欲しかったです。

5分位して、別の病院がやっと見つかったようで、そこに搬送してもらいました。


始めて救急車を呼んだのですが、こんなもんなんでしょうか?

まあテレビで見てるのと同じようなイメージはありませんでしたが、
こんなにも時間が掛かるなら、自分で病院見つけてタクシー飛ばした方が
早かったような気がしてなりませんでした。

でも、無事に病院まで搬送して頂いたので、そのお礼と、搬送までの無礼をお詫びして、
母の居る治療室に向かいました。。。



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2013年12月17日火曜日

今回の通院

昨日は母の通院の日でした。

血流を良くするワーファリンという薬の効きが余り良く無いらしく、
ここ最近は、毎月のように病院に通っております。

このワーファリン、2度目の脳梗塞発症以来、母はずっと飲んできてる薬なのですが、
余り効果が強すぎると、出血しやすくなり、返って危険な場合があるようで、
血液のとある値(名前忘れました)の確認のため、通院の頻度が高くなっている状況です。

出かける準備に時間がかかる母は、当然外に出るのを嫌がりますが、
こういう事でもないと、外にも出たがらないので、これはいいチャンスと思い、
病院での後、郊外型家具専門店に行って、買い物しようと提案してみました。

これは作戦の1つ。



 散歩や運動をしたがらないのなら、歩きたくなる所へ連れて行けばいい。



です。

本人がしたい事に便乗して、出かけたついでに動くです。
まあ女性なんで、食べる事、買い物が特に好きなようで、
これまでに、新しく出来たスーパーやら、百貨店の物産展、
郊外型ショッピングモール、ホームセンター等に行きました。

本人の体調によっては、失敗する事もありますが、
何もなければ、大体は成功します。

今回も大成功で、広い店内のあれこれ見は、
これどう?だの、こういう棚が欲しいだの言ってました。
ただし、脳梗塞の影響で、自己抑制が効かないので、
家にあるものでも、何でも欲しがりますから、散財には要注意です。

目新しいところで、楽しかったようで、ぐっすり寝ています。
昨日、あれだけ歩いたから、今日は無条件で1日ダラダラさせてあげるつもりです。



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2013年12月12日木曜日

野郎介護のきっかけ

思えば、母が倒れて、そろそろ4年になろうとしています。


倒れた日が、昨日のように。。。とは感じませんが、
でも、この4年間は、あっと言う間でした。


どうして、一人息子の野郎介護が始まったのか、簡単にまとめたいと思います。



母が倒れた時、自分はちょうど転職準備中。つまり無職のプー。
父は定年退職後し、引き続き同じ会社で、週3日のアルバイトとして再雇用中だったので、

単に時間がある自分が、ある程度落ち着くまでは引き受けた。ただそれだけですw

それが気付いたら今日になってたんです。




なぜ、父親と変わらなかったのか?父に介護してもらい、
自分が働きに出た方が、収入だって多いはずなのに。って思う方多いと思います。
まあ普通の家庭ならそうでしょう。自分もそうなると思ってました。


でも我が家はちっと特殊だったみたいです。


別に父が非情な人とは言いません。言わないけど、そういう部分は確かにあります。

今は、少し理解してくれてますが、当初、働きに出たいと言った時、
「じゃあ俺はどうなるんだ?」 と言われてしまった事がありました。泣

ここで詳しくは触れませんが、彼の生い立ちに原因があると自分は思ってます。
まあ苦労もしてきた人です。そんな人がやっと終の棲家を作り、のんびりとした生活を
信じて疑わなかったのに、突然予測出来ない事が起こってしまったのです。
そりゃパニックになって当然です。

あと、これは憶測なのですが、これまで父を見てきて、
もしかしたら、ADHD(注意欠陥障害)かも知れないような気がしてます。
(自分もその可能性有りかもですね)。

そんな状況で、介護の覚悟だけは出来てたんですから、
まあ、いつの間にか、自分がやる事になってしまいますよね。









結論: その覚悟+使えない親父=今日に至る。 って感じです。





家庭の事情は様々で面白いですね。








そんな事より、あー早く働きたい。





ってBLOG書いてるならレジュメ書けとかは、言わないで下さいね。w


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はじめに

とうとう、その時がきた。


東京に両親と同居の独身の自分。
仕事をして、給料を貰い、友人と楽しい時間を過ごし、暇をみては趣味の旅行と、
やりたい事をして、自分の時間を好き勝手に使ってきました。
ただ一人っ子でもあるので、いずれば、親の面倒は見る。
そう覚悟はしてた。そう、覚悟はしていたけど、まさか、こんなにも早いなんて。。。



2010年2月6日土曜日の寒い夕方。母が再び脳梗塞で倒れてしまった。


 
一度目の脳梗塞は運よく軽度だったので、後遺症と言えば、

左手で長時間物を持つと落としてしまう、計算が少々苦手になり、
字を少し忘れてしまう程度。運動能力的には全く問題なく、
仕事にも復帰し、車も運転し、買い物にも行き、何不自由なく生活をしていたのに。。。


この日から、ちっぽけな3人家族の人生、何もかもが一変してしまいました。。。

 

介護と言っても、個性の数だけ、様々な状況、介護パターンがあります。
自分の場合はそこまで壮絶ではないですが、
時には、悲観して人生を恨んだり、先が見えなくて絶望した事もあります。

もしかしたら、これからも何度となく、そういう状況に陥る事があると思います。
でも、逆に良かったって思える面もあります。

それは、家族の絆が深まった事。

これは、何にも変えられない、かげがえの無い大切な物なんだと、始めて知りました。

ここに、等身大の記録を残して、同じような境遇の方、介護職に従事してる方、
暇つぶしで見てくださってる方。そんな方々に何かしら役に立てたらいいな。
そう考えてBLOGを始めてみました。



現在、母63歳。

俺で出来る事は、何でもするから、1日でも元気で、これから楽しい時間と思い出作って行こうぜ。

息子より



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